教室のコンセプト
- 誰にでも学べる開かれた教室であること
- 高度で実践的な専門知識を伝える場であること
- 自身が演奏家であること
- 自分がいなくとも自主的に音楽の課題を解決できる「音楽家」、になってもらうこと
- 美しい音、幸せな音楽を作ってもらうこと
誰でも学ぶことができる場所
自分の教室では、音楽に価値を見出し学びたいという人であれば、誰でも受け入れられる広い受け皿を用意したいと考えています。
自分の教室にいらっしゃる生徒さんには(当たり前のことと言えばそうなのですが)、様々な年齢や動機をお持ちの方がいます。将来を見越して専門的に習っている小学生が、コンクールで良い結果を出すこともありますし、一方では一念発起して奮闘している初老の方とも気長に付き合いさせていただいています。中には音大生や仕事でバイオリンを教えている方がヒントを得るために訪れることもあります。
それに対して自分は、生徒さんのリクエストや質問に答えながら、同時に専門的に必要な音楽の情報を、理解しやすく解説をしながら教えるようにしています。
今日、ヨーロッパの講習会へいくと、当然留学を意識した学生や自分のように職業音楽家がいて受講している一方、普段は会社勤めをしている大人の方やアマチュアで楽器を弾いている初老の方、音楽ではないけれど、部活などで楽器を弾いている大学生などと知り合います。国籍や人種も多様です。そういった受講者を含めて音楽学校の著名な先生が、相手の力量に合わせたレッスンをします。
かつて狭い世界で希少価値をもっていたヨーロッパ音楽の情報は、その気になれば誰でも本場で手に入れられる時代。クラシック音楽を学ぶことは、専門的でかつ若い年齢だけの特権から、今では(一部を除いて)その気になれば年齢や職業に関わらず年齢や職業問わず得る機会や場所があるものとなりました。留学したりプロになれるかと言ったら全く話は変わりますが、ある程度楽器の力量と音楽の知識があれば誰でも学ぶことができます。
はるか遠いヨーロッパにある、音楽の為に理想的な空気を誰にでも開かれた場所で提供し、自分が少しづつ学んで持ち帰った、生き生きとした明確な音楽の技術とセンスを伝えたい。
自分の教室は、そんな理想を動機に作っています。
基礎段階から専門的な感覚を実感する
アマチュアだから、初心者だから、子供だから理解できないだろう。
そういった先入観によって、本来あるべき専門的な技術や言葉を十分に生徒に教えない、または教えられない先生もいると思います。先生の姿勢はそのまま生徒のものとなり、彼らが潜在的に持っている技術の成長や音楽理解への気付きを止めてしまい、最初は大事にしていたより高い音楽への希望や動機を眠らせてしまうかもしれません。
自分がレッスンの際に使う「難しい」言葉について、生徒から質問されることはしばしばあります。例えば「イントネーション」、「アーティキュレーション」、「ディナーミク」など。
それらは実際にプロが仕事の場で扱う言葉で、通常は聞きなれないものが音楽用語には多くありますが、自分のレッスンでは、それらを封印することなく自然に会話で使いつつ、それを理解しやすいように言い換えながらそれぞれの言葉のニュアンスを次第に掴んでもらっています。
これもヨーロッパの先生方に共通したことで、とても言葉の使い方が適切で、音楽の本質的な言葉に迫りながら、生徒に対して理解してもらえることを常に意識している。これもいろいろな先生方の姿勢を観察して見習いたいと考えたことでした。
音楽を作る言葉を自然に使う雰囲気を作りつつ、もちろんそれらの言葉を生徒さんに理解してもらいながら、次第に音楽の為の公用語とにすることを心がけています。言葉を理解できることは、実際に楽器を弾く際の考え方を深めることになる。
音楽の為の会話をすることにより、生徒さん自身も言葉で音楽を語れる「良い音楽家」へ引き上げることができると考えています。
演奏家としてのあるべき姿を見せる
言葉はとても大事ですが、その前提は先生が「良い演奏家」であることです。
確かに、演奏しなくとも良い先生はいます。ただしそれは、その人がかつて名手であることが条件でしょう。
説得力のある技術を生徒に見せられるか、言葉で説明できないフレーズの流れを適切に生徒に聴かせられるか、なによりも人を魅了させられる「美しい音」を伝えることができるか。当然自分のレッスンでも、生徒に課題があるごとに自分の演奏を何通りか弾いて(話しながら!)見せ、技術的な解決策を話しあっています。
それから楽器を弾くということは、人に聴かせること、つまり「演奏」することがいずれ目的となり、それが楽器の弾く技術を超えて一番難しいことであったりします。
目下の結論として、先生が「演奏」できなければ教えることはできない。自分はそう思います。
都内のプロオーケストラで在籍していたときには、生徒が演奏会に来てくださる事もありましたが、自分としては誇れない感覚がありました。なぜならオーケストラで求められるのは、音楽の一つのパーツになることあって、自身の演奏ではないから。そもそも、管楽器とは違い、弦楽器奏者それぞれがそれぞ弾いているかは、オーケストラで聴くことはできません。
オーケストラなどで音楽の「パーツ」として演奏することに対し、自身の演奏をすることはとても難しいことですが、自分は定期的にリサイタルをすることにしています。特に無伴奏プログラムの為の演奏会は、自分にとってライフワークとして欠かせないものになっています。
それぞれの良さがありますが、1パートに集中されるピアノ伴奏つきのレパートリーやピアノの比重に対して役割の薄いソナタに対して、無伴奏のプログラムは譜面上の音を全て自分でつくるため、粘り強く正確な技術感覚が鍛えられ、音楽をコントロールする手綱を常に握っている感覚が養われる。
何よりも、舞台に入るのは自分以外にいない自己責任と権利を自負する感覚とプライドが育つ、自分の背中を押す自分の存在が演奏するごとに成長することを自覚できます。その点、自分の理想はむしろピアニストのリサイタルなのかもしれません。
そして、それは生徒さんに演奏する姿勢そのものをみせることであって、通常のレッスンでは到底教えられないレッスンでもあります。
自分の演奏を実際に見た生徒さんは、そうでない方と比べ、直後から演奏の質や集中がガラリと変わる。そんな機会を何度も見てきました。
もしくは一緒に弾くことで与える影響ももちろん大きいでしょう。楽器を演奏する行為は個人的な行為で自立した意識が一番重要ですが、音楽家が共存することと相互の影響に対して柔軟である姿勢も大事な能力です。
自分の教室主催の発表会を1年に2回開いていますが、そのうち1回は生徒さんがそれぞれ一人で演奏するための通常の発表会で、もう一つは四重奏を主とした室内楽のための機会として設けています。
その際自分は、見守るだけではなく、ヴィオラに持ち替えて生徒と一緒に演奏して、善とした自分の音をそのものを直に受け取ってもらいます。その時間はそれ以外の多くのことを示すに有意義な機会となり、プロとしての演奏に必要な思考のプロセス、多角的な視点での他パートの聴き方、音楽の和声構造や実践的なテンポのコントロールなどのアンサンブル技術を伝えています。同時にその音楽の時代様式、特に一人で弾くうちはあまり触れることのないウィーン古典派の音楽の様式を体験することは、その後の発展したクラシック音楽の基礎を磨く絶好の機会になります。
「一人の音楽家」として育てる
自分が教えていることは、先生のいうことを忠実に守った演奏をしてもらうことではありません。
伝統や様式を意識できることは、価値の共有を大事にする社会ではとても重要です。
例えば、古典派とロマン派の演奏方法の違いを大まかに知っておくだけでも、良いオーケストラで弾くときには重宝されるでしょうし、またさらには古典派でもモーツァルトやハイドンとベートーヴェンの性質や譜面上の表記の違いを知っておくならば、鑑賞する際にその演奏の価値や良し悪しの判断をすることにもとても有効です。
従って自分もまずは、あるべき伝統的な姿の音楽としてヴァイオリンを教えることになります。
それが一つ目の「音楽家」としての在るべき姿勢だと思います。
ただし幸か不幸か、文化は時間と共に変化します。
ヨーロッパのほんの一時代のものであったクラシック音楽は、日本ではおよそ明治時代(ただしすでに16世紀の貿易と宣教を通じて入っていた可能性は高い。)からパブリックな文化として普及し、2大戦を経て次第に定着しつつ大衆化とクラシック原理主義、コンクール至上主義の間で価値を高め、日本的な成熟と変化をしてきました。
それに追従するように、近くでは中国の各都市でオーケストラがすでに存在しすでに高い演奏水準を持っています。さらにタイ、マレーシア、インドネシアなど東南アジアの国にも若い演奏家によってオーケストラが編成されています。自分もかつていくつかの国で演奏の為に訪れ合同オーケストラとして一緒に演奏しましたが、思いのほか演奏レベルが髙いという印象がありました。当初は絶対的な価値として輸入されるクラシック音楽は、どの国でも自分の文化の選択の一つとなっていき、やがて独自の価値に変化するのだと思います。
一方、ヨーロッパではクラシック音楽のあり方が「バロック音楽」の攻勢により再検証され、すでにその演奏の変化もしくは多様化を起こしています。日本ではそれが進行している段階です。そして一定の立ち位置を得たバロック音楽は、いずれそれより前のルネッサンス~中世の音楽の検証によって形を変えていくでしょう。
もっと大きい視点で見れば、現在起きているヨーロッパの難民問題は、ある種のスイッチとなり結果として、その文化を大きく変えてしまう可能性があります。ただしこれは歴史上では何度も繰り返された出来事であって、必然的だと思います。例えばローマ人のヨーロッパの諸民族に対する征服、懐柔による発展、またはゲルマン人の流入に代表される衰退は、時間的に見れば徐々に進行した現象でしょう。
文化の変化する現象は常に起きています。自分が好きなウィーンという場所が100年後に同じ価値を持っているか、ということを断言することはできません。
だからこそ自分が伝えたいことは、今存在している音楽とバイオリンの演奏をする価値を守り、自分の手の届く範囲の変化をキャッチして、それを一通り教えること、同時にそれぞれの生徒が、将来変化するであろうクラシック音楽のかたちと価値について自分で判断をして選択していける音楽家になってもらうこと。
そのような、誇大ですがささやかな願いを持って生徒に接しています。
それでも、一つ目の「美しい音」を弾けるようにしてあげること
矛盾しているかもしれませんが、自分のところに来てくれる生徒さんを一様にすぐに上手にしてあげられるか、といわれると断言することは難しいです。ずいぶん多くの生徒さんを接して、多くは良い影響や結果をあげられたと自負はしていますが、もちろんそれができないこともあります。
現代社会で楽器を弾くことは、難しい環境やシステムです。生活や学校、仕事に加えて、やらなければいけないこと、やりたいことが多様した時代。音を出せる環境をつくることとそれなりの投資が必要になる。ある意味バイオリンを弾くという行為は特殊な選択なのだと思います。
その中で、髙い願望をもって自分の教室にいらっしゃってくれる生徒さんたちとの奇跡的な遭遇。
その出会いを大事にして、生徒のモチベーションを守りながら、一つ一つの課題を一緒に解決すていけたらと願います。
技術的にうまくいかない課題があるときに、実は基礎を見直すことで解決できることが大半だと常々実感されます。バイオリンを弾くことでいえば、楽器と身体の関係がうまくいっているか、弦とと弓の関係を理解しているか。結果的に一つの音を綺麗に作ることができるかに帰結されると思います。そして良い音を持つことは良い音程を覚えることであり、良い発音は西洋的な軽いリズム感覚を得ることへ発展していきます。
残念ながらバイオリンをある程度弾けても、その音をどう作るかを教えてくれる先生はほとんどいないと思います。経験上も、音そのものを教えてくれたバイオリンの先生はいませんでした。
本来音を聴くことは直観的な感覚であり、音色を覚えることは音そのものを通して伝えるものですが、同時に合理的な方法で生徒に理解してもらう必要があります。
それには、先生自身が自身の音作りのプロセスを知っている必要があります。
楽器を弾くテクニックの問題に直面する度に、自分は音に何度も立ち戻ることで解決してきました。
発音を綺麗にして、母音の伸びをコントロールする。ピンと来ないかもしれませんが、自分としてはこれまで、音を作ることを地道に行ったことにどれだけ救われたことか。
幸いにも、自分は無名ながら良い楽器職人に恵まれ、(楽器の師ではなく)その方に一つの音の美学を習うことができました。それに加えある良い先生によって音色の幅を広げられ、バロックの研究によって音型の修正がされ、現在の「美音」の自分なりのメソードが作られました。
音楽の基礎やテクニックが甘かった頃、入試やコンクールでその「音」の違いによって助けられたと後になって感じることがありましたし、全員が同じ課題を弾き、テクニックの差が出にくいプロオーケストラのオーディションで良い結果を得たことも、自分が特別うまいわけでなく、根本的には「音色」の差から生まれた結果だと考えます。ウィーンで先生にまず言われたことは、日本人には稀有な音を持っているね、ということでした。
自分にとっての一つ目の「音」を美しく弾けることを生徒に知ってもらうこと。
美しい音を出す自分を好きになってもらい、その音に幸せを感じること。
その音で音楽を作ることができればもっと幸せ。
うまくいかないことがあれば、動揺せずその音に帰ってくればヒントがある。
理想的であって同時に現実的な音楽作りの方法を、生徒と共有できればと願っています。